冬至だった

明日は冬至
陰極まれば陽に転ず。

太極の本を読み返しながら、循環を考える。
十牛図
万物流転
無限ループ

果てしなく続く宇宙とこの世の果てについて考える。
生まれたのはいつなのか
時間とは何か
さて、私が死ぬとき死ぬのは誰か


お経のようだと言われたミッシェルが好きなのも
ソウルセットが好きなのも
16tonsが好きなのも

まさに深く響く読経の声に惹かれるのも
声明に包まれるのも
パイプオルガンの音色に溺れるのも

ロマネスコに見入るのも
月を探してしまうのも
洗濯機の水流に時を忘れてしまうのも

続いてゆく
終わりのない
いや始まったからには終わりはくるのか
そも始まりとはなんぞや
というループに身を任せて眠れないと言いながら
深い眠りにつくのだろう

岡本太郎さん

自分に能力がないなんて決めて、引っこんでしまっては駄目だ。なければなお良い。今まで世の中で能力とか才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄味を見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。

むしろ、能力の無い方が素晴らしいんだと平気で闘えば、逆に能力がひらいてくる。ぼくは、特別力が強いわけでもない、金をそんなにもっているわけでもない。頭脳だってそれほど優秀じゃないかもしれない。つまり、様々のマイナスの面を背負っている。

でも、マイナスの面が大きければ大きいほど、逆にそれと反対の最高に膨れ上がったものを自分に感じるわけだ。弱い、なら、弱いありのままで進めばいいじゃないか。



強烈に生きることは常に“死”を前提としている。“死”という最もきびしい運命と直面してはじめて“いのち”が奮い立つのだ。“死”はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。



人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発し続けるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命を突き出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。“ 芸 術 は 爆 発 だ ”。


自分に忠実だなんて言う人に限って、自分を大切にして、自分を破ろうとしない。大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突き飛ばせばいいのだ。炎はその瞬間に舞い上がり、あとは無。爆発するんだ。全身全霊が宇宙に向かってパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。



爆発などというと、ドカーンと大きな音がして、物が飛び散ったり、血が流れる暴力的なイメージを抱かれるかもしれない。が、私のいう爆発はそんなのではない。

音もなく、おどろおどろしい残骸もなく、ぱーっと宇宙に放射する。無償、無目的に。色でない色、形でない形で。全生命が瞬間的にひらききることが爆発なのだ。



生活にはさまざまの条件がある。ある程度それに順応しなければ生きてゆけない。しかし、順応しながら、一方では純粋に己れをつらぬくことができる。相対的と絶対的の矛盾のなかに、己れを生かしてゆくのがほんとうの人間だよ。



人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ。

7月19日生まれの人

7月19日生まれの人は、

   「優れた感受性を活かすために、心の平和を保つように」



  □長所は?□
 
●大胆 ●中心的人物になることができる ●創造的 ●指導者としての資質がある ●進歩的 ●楽観的
●強い信念を持っている ●負けず嫌い ●独立心が強い ●社交的
 
  ■短所は?■

●自己中心的 ●気分が沈みがち ●心配性 ●否定されることに対する恐怖心がある ●物質主義者
●独善的 ●がまんができない

      ☆性格と運命☆
 
●理想主義者で寛大であり、相手を理解することができる優しい心の持ち主。
●かに座らしい繊細さと直感力も持っています。
●心配性な性格が決断力を鈍らせ、せっかくのすばらしい発想を活かしきる
 ことができません。
●色彩や音に対する感覚も鋭いため、美術や音楽によって心の安らぎを得る
 ことができます。
●すべてを学習の機会ととらえれば、不満感やイライラ感を解消することが
 できます。
●寛容さと忍耐力を身につければ、あなたの可能性は無限大に広がります。
●魅力的で親しみやすく、冒険好きなあなたは、親密な絆を求める気持ちも
 強く、活発に活動します。

3歳になる前まで⇒あなたは恥ずかしがり屋でとても繊細。しかし、しし座の強い
           影響を受ける30年間で、あなたは徐々に強さと自信を身につけ
           ます。

33歳⇒忍耐力が増しますが、自分の仕事や才能に対しては完璧さを求めるように
    なります。

  ☆仕事と適性☆

●人と接することに喜びを見出し、知識を愛するあなたは、教師、カウンセラー、
 社会福祉など、人の世話をする仕事が向いています。
●自分の考えを表現したいという願望は、デザイン、執筆、音楽、美術、詩作、
 演劇などの仕事で叶えられるでしょう。
●言葉に対する感性が鋭く、法律家、社会運動家、政治家などの仕事にも魅力
 を感じます。
●組織を統括する力や経営者としての才覚もあり、ビジネスの世界でも大成する
 でしょう。

  ★恋愛と人間関係★

●あなたにとって何より大事なのは、落ち着いた精神状態。
●パートナーに頼りきってしまってはいけません。
●社交的で人気者のあなたは、1人になることが大嫌い。
●思いやりが深く寛大なため、愛する人のために自分を犠牲
 にしてしまいがちなので注意が必要。

エンデの言葉

ミヒャエル・エンデ‏@Michael_Ende_jp

灰色の男たちは、こまぎれ、分解の原理です。彼らにとっては、計算、計量、測定できるものだけしか現実性をもたない。計量思考を代弁しているのです。計量思考は現代社会をほとんど覆い尽くしている。しかし、人間は今、そこから再び全体性を見つけ出そうとしている。

皆さんが褒めるには、私が『モモ』を書いたのは、現代社会で誰もが忙しくて「時間」の持てない存在になったことに注意を喚起させるためだった。あるいは、人々のストレス状態、世の中の慌ただしさを警告するためだった、というのです。けれども、いや、いや、ちょっと違います、とは言いたい。

人間から時間が疎外されていくのは、いのちが疎外されていくことであり、そう仕向けていく恐ろしい力が世界にある。しかし一方に、別の力が働いており、これが人間に治癒の作用を送ってくる。と、そこまで(『モモ』で)暗示したつもりです。

病気とは力です。ものすごい力です。ただ、別の種類の力。もっと高度な種類の力なんだ。だから、私たちがそれを正しく使わないと、その力は我々を破壊するのです。




自己に執着すればするほど、人は真の自己を失う。自己をなくせばなくすほど、人はその人自身になる。



この世界の現象の背後にある精神的なもの、霊魂的なものは、五感を通じての私たちの直接の知覚からは隠れています。”隠れている”とはしかし、ラテン語の「オカルト」の訳語にすぎません。



真の芸術、真のポエジーは、いつも頭と心と五感の統一体から生まれ、それを受け取る人間に、この統一体を再建します。つまり、それはその人を治す、治癒するのです。

身体で災禍を乗り越える

甲野善紀さんの文章より

歴史というのは振り返ってみると、
まるで筋書きがあるように展開している。
「もし、あそこで、ああしていれば、こうしていれば」という事は後になって言えることで
その時そうなってしまった事を、
いまさら悔いても仕方がない。
そして、
その微妙に外れて"トンデモナイ事態"を招いてしまった事と、
ちょうど逆の意味で、微妙に様々な事が繋がって、
思いがけない気づきやら立場やらが得られることもある。

私は19歳の時、
当時の農業が抱える問題や現代医学の矛盾やらに気づいた事がキッカケで、
それまで目指していた「南米に行って牧畜でもしよう」という人生設計が崩壊し、
私が最初に書いた本『表の体育・裏の体育』(PHP文庫)に書いた「裏の体育」、
つまりさまざまな民間の健康法や療法と出合った。
この事を起点として、
私は人間の精神の在り様の重要さを知り、
新宗教から伝統的な宗教に至るまで関心を持つようになった。
そして21歳の時、
「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という、
言葉で言えば矛盾している二重性こそが真実に違いない!との確信を持つに至った。
これは、
当時身辺を離さなかった禅の語録『無門関』や『荘子』、
それに一般人向けに書かれていた相対性理論の本などを読んでは考える日々を重ねながら、
現代医学とは異なる種々な健康法の成果や失敗を直接見聞きして感得した結論であった。
この結論を得てほどなく、
私はこの思想としては私の中で動かしがたい確信を得たものを、
体感レベルでも確信したいと武の道に入ることにした。
なぜ武道に志したかというと、
とにかく身体を通して向き合う緊急事態で自分の身体がどう動くか、
自分の精神がどう感ずるかを、
実地で研鑽するには、
これが一番向いていると思ったからである。
そして約40年。
当初の志がどれほど進んだかといわれると何とも答えようがないが、
あの40年前に抱いた確信が若干字句を変えて間違いなく今もあるし、
その若干の字句の違いが40年の年月をかけた深化といえば深化なのかとも思う。
それは
40年前は
「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」であったが、
現在は
「人間の運命は完璧に決まっていているから、完璧に自由でもある」になっているという事だ。
つまり、
40年前は「完璧に決まっていて、同時に完璧に自由とは、
言葉で言えば矛盾しているかもしれないが、そうなのだ」という感じだったが、
現在は「完璧に決まっているから、思いきってやっていいんだ!という自由さがある」とでも言えばいいのか。
この課題を40年抱えてきて、
それがある程度身について出た言葉なのかと思う。

とはいえ人間は、
大勢の人の前で大欠伸するのも憚られるし、
そうそう自由とはいえない。
人間にとって重要なのは、
ただ単に自由を得るという事よりも、
感性と美意識を持つという事なのかもしれない。
その事は、
今回の東北・関東の大震災の数日後に、
私が師事している(友人のように接して頂いているが)
身体教育研究所の野口裕之先生にお会いして、深く染み透ってきた事でもある。
野口先生は
「震災の報道を見て"もののあはれ"を感じないところが、文化を失った現代日本の悲劇の証明…」と語られ、
「"もののあはれ"をなくして、ただ悲惨という事実のみになったのは
「定め」を拒否した近代人の脆さでしょう」とも続けられた。
そして、
「本当に人間を救うのは感性と美意識なのに、
それがなくなって災禍の中に咲く野の花の美しさに感動することが出来なくなった…」
と嘆かれていた。
感性と美意識を育む文化がないと、
人間は少しでも余裕が出ると犯罪をはじめロクでもない事にその時間を使うが、
身についた文化があれば、
余裕がある時はもちろん、余裕が殆どない時でも、それに時間を割こうとする。
野口先生のお話を伺っていて、
武術は身体の動きの質を追求するという最も基盤となる文化であり、
手に何もなくても、あるいはきわめて単純な棒一本あれば、
それで十分に行なえるという特色を持っている。
これからどうなるか、
きわめて不安定な要素の多い時代を歩んでいく上で、
「武術における身体運用の文化は少なからぬ力を持っている」と、
今それを感じている。

そして、
この身体運用の文化を深めていくことで、
人間が身体を使って日常の生活を送る、
という事そのものに生き甲斐を見出せれば、
現在の「便利さ」「豊かさ」を外に向かって求める傾向に
根本的変化をもたらす事が出来るのではないかと思う。
そうなれば、現在の環境問題も本質的な対応が出来るようになるだろう。
そういう流れが来ることを願って、いまこれを書いている。

ゲーテの言葉

「人間の筆跡がその人の感覚の状態や性格に関係を持つということ、そしてそこから、少なくとも『その人の生存し行動するやり方のある予感』を感ずることは疑いありません。それはちょうど、人の外観と特徴のみならず、表情、音声、はては身体運動も重要なものとして、また全個性と一致するものとして認識せざるを得ないことと同様なことです。しかし、人はこれについて細々と語るでしょう。が、このことを特定の方法的連関において果たすことは何人もまず成功しまい」(『書の心理』黒田正典)

1820年の手紙の中で書いたそうですが。

http://www.kcon-nemoto.com/13_graphology/graphology.html