さっきふと浮かんだこと

ある意味すべてとつながりたいと思った。
すべてを引き受けて私の具合が悪くなるだけなら、それでいいと。
でもそんな力、私にはない。

地震の後にも思ったけど、アルマゲドンのように、私ができることならやるのにね。私ひとりが犠牲になって、みんなが助かるなら。

200歳まで生きるから。
終わりまでみたいから死にたくないなあ。
と思うのと、
今どうなってもいいと思うのは、私の中では矛盾しない。

Nature にて

1990年代半ばまで、自閉症は、まれな疾患であって重度の精神障害に結びつくものだと考えられていた。しかし、その後、報告される症例数はふくれ上がり、現在では、自閉症は特徴や重症度に幅のある多様な病態を含むと考えられている。自閉症の原因や治療法、さらには定義までもが、依然として確定できないままである。


しなくていいから。

帯津先生のつぶやき

がんという病気は体だけの病ではなく心にも命にも深くかかわる人間まるごとの病なんですよ。ここはどうしても体・心・命が一体となった人間まるごとをそっくりとらえるホリスティック医学を持ってこなくてはならないのですよ。こんな簡単なことをどうしてわかってもらいのかなあ。

ホリスティック医学を求めて30年。日暮れて道遠し。西洋医学(からだ)、各種心理療法(こころ)、そして代替療法(いのち)のなかから選びだした戦術を統合して、その患者さんに相応しい戦略を提案することによって理想のホリスティック医学に迫ろうとしているのが現状。まだまだ道の最中ですよ。

ホメオパシーのことも多少は知っていた。しかし、代替療法の一つ、ワンオブゼムにすぎないと思っていたので特別な関心を抱いたことはなかった。ところがある日突然、これほどホリスティックな医学はないと悟ったのである。いまではわが対がん戦略になくてはならないものになってしまったのだ。

私がホメオパシーの勉強をはじめたことを知った3人の入院患者さんがホメオパシーの治療を受けたいと申入れてきた。でもまだ修行中の身だからと断ると私たちの病状は待ったなしですよと真剣な表情。・・・わかった。それではと無料で始めた。この無料が効いた。燎原の火の如く院内を席巻して行った。

いくらホメオパシーがホリスティックな医学だからといっても、がんの治療にこれを単独で用いることはない。あくまでも戦略の一環としてである。それにしてもホメオパシーが加わって、わが対がん戦略に厚みが出て来たことはたしかである。どう厚みが出て来たか。それは次回のお楽しみといこう。

戦略に厚みが出て来たことの第一は、がん患者さんというものは一度に多彩な症状をあらわす。たとえば頭痛がして口内炎ができて咳が出てお腹が痛い。その上にはむくみという具合にである。これを対処するには西洋医学はたくさんの薬が必要なのにホメオパイーならアルセニクム一つで足りてしまう。

ホリスティックながん治療におけるホメオパシーの役割として強調しておきたいのが、その心に対するはたらきである。まずは死の不安。これを和らげないことには免疫力も自然治癒力も半減してしまう。そのためのレメディはアコナイト、アルセニクムを筆頭に多士済済。じつに心強い味方ですよ。

それから生きる悲しみ。生きとし生ける者、胸に悲しみを抱いて健気に生きているわけですが、がんの患者さんというものはとりわけ悲しみが深いものなのです。その悲しみを癒すためにたくさんのレメディがあります。オーラム、カルシーノジン、コースティカム、イグナシア、ナトルム・ムリアティクムなど

次は怒り。何に対する怒りだと思いますか。病という境遇に対する怒り、そうした自分に対する怒りも珍しくはありませんが、いちばん多いのが医師に対する怒りなのです。こうしたときはスタフサグリアなのですが、医療が本来の温もりを取り戻してくれれば、何も問題ないことなのですよね。

ホメオパシー単独でがんに立ち向かうことがないといっても、抗腫瘍効果がまったくないというわけではないのですよ。がん細胞を原料としてつくられたレメディ、たとえばカルシーノジンとかスキライナムを使用した途端、あるいは力価を上げた途端に腫瘍マーカーが下降することだってあるのですよ。

ホメオパシーが科学的根拠が乏しいといって非難されたことがありました。しかしこれはよく考えてみると、決して正鵠を得ているとは言えないことなのです。なぜならばホメオパシー代替療法の一つです。代替療法は多かれ少なかれ心や命にかかわる治療です。科学的根拠が乏しいのは当然なのですよ。

こころやいのちを解明していない現在、代替療法が科学的根拠に乏しいのは当然なのですよ。これは代替療法の責任ではなく未熟な科学の責任です。代替療法は胸を張って科学的根拠については大いにこれを尊重し、不足の部分は直観で補っていけばよいのです。科学と直観の統合ですよ!

直観と論理、つまり右脳と左脳です。両者が一体となって豊かな人生を作っていくのです。片方だけが良くて他方はいらないということはないでしょう。エビデンスエビデンスと囃し立てるのではなくエビデンスも大事なら直観も大事と両者を統合していけばいいんですよ。

そのエビデンスと直観の統合を目指して9月に奈良でわが国では初めての第67回リガ国際ホメオパシー医学会が開かれます。9月12日(水)14時から16時。京都で市民公開講座が開かれます。場所はメルバルク京都。入場無料。ホメオパシーに関心のある方は是非ご参加ください。草笛光子さんも出席。

もう一度お誘いします。9月12日(水)14時から16時。京都でホメオパシーに関する公開講座が開かれます。場所は京都駅前のメスパルク京都。日本ホメオパシー医学会の川嶋朗理事の講演に草笛光子さんと私の対談です。入場は無料。きっと楽しい会になると思います。

おかげさまで第67回国際ホメオパシー医学会は大成功でした。海外からの皆さんはすっかり奈良を気に入ってくれましたし、国内からも予想を超えてお集まりいただきました。私のつぶやきも多少を役に立ったのではないでしょうか。ということでつぶやきはこれで終わります。ありがとうございました。

甲野さんのつぶやき

とにかく、原発にせよ、農薬問題にせよ、これを克服するには、質素でシンプルな生き方で十分満足が出来るような暮らしの技術と、食べ物の好みを身につける事は、重要かつ必要な条件ではないかと思う。

まあ、いつかは生の玄米や生野菜だけの食事にしたいという宿願はあるが、あちこちと、まだ出かけていろいろな人と会っている間は、そうもいかないので、多少の動物性もとっている。

それに生食で体を締めると、さまざまな感覚が敏感になって、街中で暮らすのはなかなか辛い。それは昔、1ヶ月発芽玄米と生大豆や生野菜で過ごして身に沁みている。

ただ、そうした食事を歓迎できる人が増えたら、現在の消費エネルギーもずいぶん減らせるだろう。あの時の寝起きの爽やかさは本当に忘れられない。

質素な食物、シンプルな生活で、身も心も充足するような生き方が出来れば、社会の構造と、価値観を根本的に変える事も現状よりはよほど可能性が高くなるだろう。

しかし、多くの人の見栄や立場への固執、自己保身、様々なものが渦巻いていて…原発事故以来、何度も絶望して、何度もその気持ちを立て直して来たが…

現在、最終処分も出来ない放射性廃棄物を出し続ける原発を、何だかんだ言っても容認せざるを得ない現代社会の罪の深さに、最近は心の奥底が震えるような怯えが生まれることがある。それが何故か今夜は今までにないほどキツクなってきた。

今年の2月に風邪を引いた際、12000年前に人類が小麦を栽培し始めた事に、「あれが環境破壊の始まりか」と、言い知れぬ悔恨の思いが湧いた事があったが、今夜はあの時以上に辛い。

キリスト教でいう原罪など、かつては関心のなかった私だが、現在の原発を稼動させ、農薬も止められない、いわば環境に対してこれだけ罪を犯し続けながら生存している我々を見せつけられると、「なるほど原罪とはよく言ったものだ」と思う。

今そうした罪の意識がまったく無い人々といえば、アマゾンのピダハンなど本当に極く一部の人達だろう。

知恵の木の実とは無縁だった人達、かつての日本にはそれに近い人々も暮らしていたのだが…

野元氏のメールがキッカケか、このツイートを始めたためか、夜に入って急速に気持ちが落ちてゆく。しかし、あらためて考えればどうにもならない事だらけ。福島の4号機の危険さも少しも変わっていないのだし…。

バベルの塔以上の恐ろしい物をこんなに沢山作ってしまった人間が、何もなしで済むと考える方がおかしいのではないか(キリスト教徒なら一層)と、思う。今夜は今までで一番その恐ろしさが私の心に迫ってくる。

「考えても仕方がないから考えない」というのも、一つの方法かもしれない。しかし罪を犯し、その報いが来そうな者に「考えても仕方ないから、仕方ないことは考えないことだよ」と、まっとうな人は言うだろうか。

「罪は償うべきだ」と言うのが本当ではないかと思う。「自分にその気はなかった」と言っても「業務上過失」という事もある。「人が生きるために、これだけ好き勝手やって、さらに便利にして、この問題をしのごうとしている。一体そんな事が許されるのか」と、今夜は本当に考えてしまう。

そうは言っても、この時代に生まれてきてしまったのだ。せめて自分が生きている事そのものに申し訳なさを持って、この時代、この事態を多少は何とか出来るようにしたいと思う。



この間まで読んでいた森有正と、人の病と、生きることについて考える。

絶対と普通

絶対と普通はない。

そう思ってきたけど、
人に言われると、なんか、どう言ったらいいんだろう、
もう一度考えるチャンスなのかと。

絶対はない。
原田先生と話したなぁ。

絶対無。
考えられない。

あることしか考えられない。

もうすでにある。
あるモノが変化をし続けているだけ。
そう感じてから、無、は無くなってしまった。

しかし、空、はある。
0は無ではない。そこに何かあることを表わす記号である。
または、可能性の表示である。

絶対とか普通とか、
概念上のもので、
表わすことができませんから、
だけど、それを考え出した時点でそれはあると言えるのか。
概念上のものは、ある、のか、ない、のか。

目に見えないもの。
目に見えてるものさえ同じものではないのに、
見えてないものが同じであるはずがない。
お互いそれを前提で話していればいいのだけど、
そこに食い違いが起きる。

普通。
望むよね、普通ではないと思っている人は。

お話を聴いた人は、
多かれ少なかれみな、ある問題を抱えています。
私自身もそうだし。

基準をどこに置くのか。
共通の基準はない、数値化できるもので作ることはあっても。
わかっていても使ってしまう、普通。

一般的に見た時。
よくあること。
許容できる範囲。
平均。
想定内。

その人にとってのこれらのことが、
その範囲が広いのか狭いのかでなら感じられる。

ついつい使ってしまいますが、
それを使って話すことで、
その人の‘普通’がわかるので、
使って欲しいとは思いますが。
矛盾しますかね。

このところの変化

3日前からつま先に汗をかいていない。
びっくりしました。
おとといはちょっとかいてたけど。

昨日も感じましたが、疲れない。
一週間くらいで3回も朝までムートンでしたが、
翌日も全然平気で。
立ち続けているのも平気で、この間はなぜか電車も座らずに乗ってしまった。
ま、途中で座れる予感もしたけど。
階段も先週までとは違う。
その場その場で、自分が対応しているのがわかる。

昨日、山本さんにお会いして、お話しながら、
本当にエネルギーが漲っていて、びっくりする。
何かに遮られていない感じで、ものすごく自由に感じる。

21日にお休みで、レポートを書いて、自然の風を感じて汗をかいて。
ディープリラックスのお風呂に2日続けて入って。
レポート書きながらも、腰や、首や、肩や、耳の付け根まで痛かったのに。
今は痛くない。
あるとき、右肩に痛みが一瞬湧いてきたのを感じた。
あ、今痛みが始まった。中からまさに湧いてくるという感じ。
そしてそれはちょっとその場でくすぶっていたけど、
気づくと無くなっていた。

きっと、森有正の本のおかげ。
今読んでよかった。
たぶん、学び始めに読んでも、全く意味がわからなかったかもしれない。
自分がやってきたことが肯定された感じ。
これでいいのだ、と、深くうなずける。

足の裏のかゆみも21日がピークだったかも。
そこからすごい勢いで治っていってる。

今日はお誕生日です。
ゆっくりしましょう。

何が大切なのか

今朝の甲野さんのつぶやきを読んで、またつらつらとわかることがあった。

ピダハンは仲間がジャングルで迷って行方不明となった時、村中が寝食を忘れてこの人物を捜し、見つけた時は全員が非常に喜び、手厚く労わる。

しかし、難産で苦しんでいる女性が助けを求めても誰一人助けに行かず、その女性も赤子も死んでしまった事も記録されている。


考えさせられる。

目に見えてるものより目に見えないものの方を信じるようになっている。
見えるように何かをやっているのは他者に対して誇示しているのか。
あからさまが嫌い、認められていればいい。
はっきり言わなければわからないと思っていたけど、感じるだけでいい。(夏目漱石のI love you)
それがたとえ思い込みだったとしても。
すべて自分の責任だし、そしてすべてが思い込みだし。
森有正のかじり読み(これからちゃんと読みますが)、
そこから本居宣長について、
やっぱり日本人なのだと思う。
やることやるしかないよね。

人は人吾はわれなりとにかくに吾ゆく道を吾はゆくなり